Molo San Carlo の石の柱にもたれて、入港する船を眺めていた。オーストリア・ロイド社の定期船がアドリア海の朝霞を割りながら岸壁に寄ってくる。タラップが降りると、乗客が甲板からぞろぞろと降り始めた。
わたしは頭ん上のボンネットの紐を直しながら、その流れの中にあなたを探した。コートの襟を立てた商人が前を横切る。錆びたトランクを引きずる老婦人、白い服の水兵の一団。ドイツ語とイタリア語が潮風に混じって、誰が誰に話しかけているのかわけがわからない。人波が埠頭に散らばっていく。その向こうに、ようやくあなたの姿が見えた。桟橋を小走りで駆けていく。
「また会ったね」
あなたの顔を見て、少しだけ安心した。鞄の持ち手を握り直す。
「今回の場所はわたしもはじめてだよ。一緒に迷子になろう」
港の空気はパリと違っていた(もちろんだけど)。石炭の煤煙と潮と魚の匂いが全部混ざっているような強烈な冷たさ。建物の向こうに海と空が抜けていて、街全体が開けている。ギリシャ商人らしき男たちが荷揚げの指示を飛ばしている横を、スロヴェニア語で話す女性たちが魚籠を運んでいく。イタリア語の新聞を売る少年の声がよく響く。
海からの風が強くなった。ボンネットの縁が煽られて、片手で押さえる。十月のアドリア海はもう夏の気配はなく、冷たい突風が時おり波頭を白く立てていた。
「さ、行こう。あっちから頂上に登るんだって。」
二人で埠頭を離れた。石畳の道が、旧市街に向かって傾斜していく。
少し経って旧市街に入ると、道が急に狭くなった。石灰岩の壁と壁のあいだに曇った空。洗濯物が頭上をまたいでいる。白いシーツ、縞の靴下、子供の肌着。風にはためくたびに、すぐ上の窓からイタリア語で誰かを叱る女性の声が降ってくる。たぶん子供を。わたしたちではないと思う。
斜面が終わって石段が始まる。古い灰黄色の段で、真ん中が何百年分すり減ってくぼんでいる。両側の壁は湿っていて、深緑の苔が隙間に濃く詰まっていた。スカートの裾を少し持ち上げながら上る。足元を見続けていると、視界に猫がいた。石段の真ん中に寝そべっているから避けて通るしかない。トリエステの猫は偉そうだなと思う。
坂の途中の小さな広場に、ローマ時代のアーチが一つ、建物の壁に半分めり込んだまま残っていた。Arco di Riccardo(ガイドブックにあった)。千八百歳の石のすぐ下で、老人がベンチに座って新聞を読んでいて、少年が二人石を蹴って遊んでいる。観光客のわたしたち以外、誰も特に気にしていない。
「ま、ローマの栄光をまだ気にしているほうがダサいけど」
あなたはわたしの意図を汲んだみたいで、視線を逸らして笑った。
「もうちょっとで上だよ」
たぶん。木が多くて頂上への視線は遮られている。これは自分に言い聞かせたのかもしれない。
結局十分ほど歩いた。丘の頂上に着くと、サン・ジュスト大聖堂がそこにあった。地味だった。くすんだロマネスク様式の正面。門の彫刻もなければ飛び梁もない(パリと比べるのは野暮だが)。中に入ろうとしたが、入口にドイツ語の巡礼団体が詰まっていて、扉の向こうから賛美歌が漏れ聞こえていた。あなたはわたしを見て、肩をすくめた。
「……まあ、外から見たし」
代わりにといって、城壁の端まで歩いた。そこからトリエステが一望できた。さっき歩いてきた埠頭、停泊する船の列、大広場の白い建物。その向こうにアドリア海が広がっていて、イストリア半島がうっすら霞んでいる。
赤いくすんだ屋根が不規則にならんで、曇りの海とちょうどいい対照になっている。松が生えた低い丘が町を囲んでいる。
「そろそろ行こう。お腹が空いたの」
下りは上りより楽だった。別の道を通って降りていくと、旧市街の細い路地から急に視界が開けて、海沿いの大通りに出た。
「あそこ」
右手を指さした先に、Caffè Tommaseo、と書かれてた日除けが見えた。ガイドブックに載ってた、トリエステで一番古いカフェ。
扉を開けると、煙草の煙とコーヒーの匂いが一緒に押し寄せてきた。
壁一面に鏡が張られていて、店の中が実際の倍の広さに見えた。大理石のテーブルが並び、天井から銅色のガス灯が柔らかく落ちている。客のほとんどは男性で、新聞を広げているか、向かい合って声を潜めて話し込んでいるかどちらかだった。角の席で、白い髭の老人がひとりチェスの盤面を睨んでいる。対戦相手はいない。鏡と対局してる?
真ん中に空いていたテーブルに座った。椅子の張り布は赤い。座ると少し沈むタイプの柔らかさだ。給仕が来て、わたしは注文した。
「ヨータを二つお願い。あれば鰯のグリルも」
あなたが驚いた顔をしたので、少し得意になった。
「船で隣に座ったおばさんが教えてくれたの。トリエステに来たらヨータを食べなさいって。豆と酸キャベツのスープ。おばさんの言ったことだけどね、これを出さない店はまともじゃないらしいって」
驚くべき早さでヨータが届いた。厚手の陶器の器に、茶色いスープが湯気を立てていた。白いんげん豆、酸キャベツ、じゃがいも。塊のまま崩れかけた豆が底に沈んでいる。とろけた豆の塊はとても重い。ひと口目で身体の芯が温まって、坂道で冷えた指先に血が巡っていく感じがした。
鰯のグリルも来た。三尾ずつ、小さな皿に並んでいる。皮に網目の焦げ目がついていて、レモンが半分添えられていた。
「おいしい」
あなたも頷いた。しばらく二人とも喋らず、ただ食べていた。旅先で食べる料理は大抵おいしい。それが新鮮感からくるものであろうとも。
隣のテーブルから、声が聞こえた。中年の男が二人、コーヒーを挟んで身を乗り出している。
「また壁に書きやがったぞ。Via Carducci。朝には消されたがな」
「馬鹿野郎。隠れていろと言ったじゃないか。」
声が小さくなり、聞こえなくなった。わたしは最後のひと匙を口に運びながら、壁の鏡に映ったその二人をちらりと見た。どこにでもいそうな市民だ。イタリア人ということだけはわかる。これ以上は野暮だと思って視線を外した。
給仕がコーヒーを持ってきた。注文した覚えはなかったが、どうやらヨータの後にはコーヒーが出てくるものらしい。小さなカップに、黒い液体が並々と注がれている。砂糖を入れて飲むと、苦くて濃くて、ウィーンのメランジェとは全然違うように思えた。トリエステは帝国一のコーヒーの港だと、さっきのおばさんも言っていた。豆が最初に届く街だから、ここの人間はコーヒーにうるさいと。
飲み干したあと、代金を払って店を出た。
カフェを出て左へ曲がると、街の様子はずいぶんと違っていた。旧市街の迷路じみた坂道ではなく、広い通りが直角に交差している。建物の正面が行儀よく揃っている。これまたガイドブックによると、マリア・テレジアの時代に碁盤の目で引かれた新市街だそう。ハプスブルク家の裏庭といったところ。
そのまま数分歩いて、Canal Grande の上に出る。海から内陸へ真っ直ぐ伸びた運河で、両岸に商館の列が並んでいる。荷船が低く浮かんで、繋がれた船同士がぶつかる木の音を繰り返していた。水面に油が薄く光っている。休憩時間だろうか、荷揚げをしている男たちも、帳簿を開いた商人も見当たらない。空の小舟がゆらゆら揺らいでいる。
左に、青灰色のドームが二つ浮かんでいる。一つめはセルビア正教の聖堂だった。正面の祈祷文が金色に鈍く光っていて、わたしはその文を解読することに夢中になった。…БОГЪ ВЪ МѢСТѢ СВЯТѢМЪ(?) は読めた。「聖なるすまいにおられる神は」の一節だろうと思う。正教会のファサードには決まって刻まれている定番だ。下の方は…読んだことはあると思うけど、出所が思い出せない。
吟味していると、ちょうど家族連れが中から出てきた。子供が二人石畳を駆け出して、母親が追いかけながら叫んでいる。父親らしき背の高い男が、子供たちの後を悠然と歩いていく。数歩歩くと彼は帽子を脱いで、聖堂の方を向いて十字を切った。
運河沿いをさらに歩くと、反対岸にもう一つドームが見えた。今度はかなり大きいシナゴーグだった。白い外壁と鐘楼の前で、ユダヤ人の老人が二人、新聞を広げてベンチに座っている。片方が何か言って、もう片方が大きく笑った。相変わらず、カモメが頭上を飛んでいる。
ポンテ・ロッソの橋を渡ると、運河の突き当たりに露店がひしめいていた。
一番手前が魚屋で、タイやイワシ、大きいエビが砕いた氷の上にずらりと並んでいた。売り子のおじさんがイタリア語で値段を叫び、客のおばさんがドイツ語で値切っている。お互いの言葉なんて通じてないはずなのに、指の動きと表情と語気の強弱だけで商売が成り立っていた。おじさんが首を横に振る。おばさんが財布を閉じるふりをする。おじさんが溜息をついて、鰯をもう一尾紙の上に載せた(ありえない!)。おばさんは満足そうに硬貨を置いて去っていく。
魚屋の奥に青果、乾物、香辛料が続いていた。カゴに盛られたイストリアのオリーブ、ダルマチアの乾燥イチジク、ハンガリー平原から運ばれてきた小麦粉の袋。山積みの南瓜の隣に、鮮やかな赤い粉が量り売りされていた。パプリカ・パウダー、と値札が言う。
目についた生のイチジクを買った。売り子の黒い肌の女の子に二つくださいと言ったら、三つ握らせてくれた。一つをあなたに渡して、自分のを割る。皮が薄くて、中が蜂蜜みたいに赤くて、種がきらきら光っていた。
「おいしい。食べたことないよこれ」
市場の通路は人でいっぱいだった。買い物かごを提げた主婦たちが売り子と声を張り上げ、荷物を担いだ少年が走り抜けていく。生地屋の前で布を光にかざしている男、香辛料の匂いを嗅ぎ比べている婦人。トリエステ語、ドイツ語、ギリシャ語、スロベニア語。ここはそういう場所なのだ。
市場の端まで来ると、運河が海に入って途切れた。海沿いに沿って港付近まで歩く。
「今日楽しかったね」
そんなことを言いながら、海上で踊る鴎を眺めていると、風がいっぺんに強くなった。あなたをつつく。
「ね、風」
「強いね」
海沿いの歩道を歩き始めたとき、背中を押されるような突風が来た記憶があった。数秒で止んで、また吹く。今度は明らかにさっきより強い。それも、数倍なほどに。
通行人の動きが変わった。足を速めて軒下に駆け込む者、壁に手をついて立ち止まる者。海を見ると、波頭が一面に白く立っていた。
ボーラだ!
すぐに立っていられなくなった。カルスト台地の向こうから吹き降ろしてくる風が、通りを横殴りに駆け抜けていく。目を開けていられない。建物と建物の間にロープが張ってあった。こういう日のためのものらしい。ふざけてる!わたしはあなたの腕を掴んで走った。
ロープを握った瞬間、頭が軽くなった。
紐が解けて、ボンネットが風に攫われて、白い浪花の上を鷗みたいに舞い上がっていく。わたしは片手を伸ばしたが、とっくに届かない高さだった。
「うわあ」
あなたが何か言おうとしたが、風に消された。髪が顔に張り付いたまま、ボンネットが海の方へ飛んでいくのを見送った。気に入っていたのに。
ロープを伝って歩いた。一歩ごとに風が身体を横に押す。前を行く紳士が帽子を両手で押さえていて、その奥では犬を抱えた女性が必死の形相で走っていた。犬だけ妙な落ち着きがある。とにかく今はそんな場合じゃない。走らないと!
角を曲がって、風を背にした路地に逃げ込んだ。建物に遮られて、急に静かになった。耳が鳴っている。疲れた手で顔をぬぐったら、砂塵と海水が混ざった色をしていた。自分の顔が迷彩のようになってることになんとなく気が付いた。
あなたの視線に気づいて睨み返すと、数秒の沈黙が続いた。それから、
「あっははっ」
「ふふっ、ふははは」
こみあげる笑いが固い空気を貫通した。頑張ってとめようとするとあなたの顔が見えてしまって、たまらずまた吹き出す。あなたは手に顔を埋めたが、隠せないほど顔が笑いに震えてるのがわかる。
「ずーるーい!!」
無理やり手を外すと、あなたは笑いすぎて後ろへのけぞり返った。それでまた涙がでるほど笑ってしまって、止まらなくなった。二人分の笑い声が街角を満たした。
どれほど経っただろうか、あたりはもう暗くなっていた。通りがかった婦人に白い目で見られたほどに。
宿は港の近くの大道辺り、四階建ての古い建物だった。看板には Albergo とだけ書いてある。受付の男が、わたしたちのずぶ濡れの姿を見て一瞬口を開きかけたが、何も言わずに鍵を渡した。慣れているのだろう。ボーラの日には、こういう客がいくらでも来るのは想像できる。
部屋は狭かったが、暖炉があった。火をつけて、椅子を二つ暖炉の前に引きずった。靴を脱いで、濡れた靴下を炉の柵に掛ける。スカートの裾から水が垂れて、木の床に小さな染みを作っていく。あなたも同じようにしていた。二人分の靴下が暖炉の前にぶら下がっていて、さっきの風がもう嘘みたいに静かになっていた。
窓の外ではまだ風が唸っている。でも、窓の内側にいる自分たちは乾いて暖かい。
「散々だったね」
パリでも同じことを言ったと思う。雨の中、ベンチの横で。あのときは今と比べればまだ元気だった。今は身体の芯がずっしりと重い。一日分の疲れが鉛のように足に沈んでいる。
あなたがイチジクの残り一つを差し出した。市場で三つ買ったうち、奇跡的に潰れなかった最後の一つ。わたしは受け取って、半分に割った。
「ね、今日楽しかったでしょ」
暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っている。
小さく咳をした。喉の奥が少しひりひりする。ボーラの冷気を吸い込みすぎたのだろう。心配そうな顔をしたので、手を振って笑った。
「大丈夫。乾いたら治るよ」
翌朝、あなたが先に起きていた。
窓から光が入っていて、風はもう止んでいた。暖炉はとっくに消えていて、部屋は少し冷えている。靴下は乾いていた。
わたしは毛布にくるまったまま動かない。
「……あと五分」