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殴られ屋

· 32min

「それじゃ、ごゆっくり」

そう言い終えると、老板は一瞬目配りをしてドアを閉めた。すぐにかちゃっ、と鍵をかける音がした。

わたしはベッドの横にただ座っていた。信用していないとはいったが、いざ老板が出てしまうとさっきまでの期待と高揚感がうそのように心細い。男の人は、錆びた天井に貼られだ魔よけ札を見つめながら、なにか考えことをしているようだった。どう声をかけるか迷っていると、彼が目を合わせてきて、先に話してくれた。

「じゃ、まずは横になってもらえるかな」

抑揚のない優しい声だった。わたしはそれに従順に従った。両手、両足をすらりと伸ばしながら、目を閉じる。なるべく緊張を表情に出さないよう頑張った。

右の手首を掴まれた。ひんやりと冷たい彼の体温が心地よく、安心感を与えてくれた。次は左の手。ざらりとした金属の感触が手首を固める。こうして、ゆっくりと丁寧に、わたしの両手には重く硬い手錠が繋がれた。

目を閉じながらじっとしていると、こんど彼は自身の服を脱ぎはじめたようだった。まずはコート、次はシャツ。好奇心に耐えかねて目を開けると、襟のボタンもきっちりと閉められていたのが見える。父ですら見るのは恥ずかしいのに、知らない男の人を覗き見ようとするのはあまりに破廉恥だとふと気づいて、急いで目を閉じる。

しばらくすると、彼がベッドに上がってきたようで、突然、両方の手首に重い感覚がのしかかる。見ると、彼が膝をわたしの伸ばした両手について、馬乗りになってきた。シャツは完全に脱ぎ捨てられており、筋肉質な上半身があらわになる。先ほど感じられなかった汗と熱気が、一気に鼻の奥をついてきた。大柄な影がわたしを覆い被さる。ああ、男の人って大きいんだな、といまさら実感する。同時にすごく緊張してきた。先ほど緊張していないわけではなかったが、この場合は不安の割合がかなり大きいということだ。

恥じらいに顔を布団に埋めたい感覚のままでいると、彼が「じゃあ、そろそろ始めるよ」といってきた様子で手を上げたので、わたしは慌てて頭を戻して、目と口を固く閉じて準備をした。が、彼は突然何かを思い出した様子で、動きをやめた。

「顔の方は大丈夫かな」

変な問題だ。わたしはフリープランに承諾したのだから当然だ。それを指摘しようとしたが、緊張と彼の放つ威圧感で舌が震えて、あまりうまく喋れない。

「あ、はい…おねがい、します」

これが正しい回答だったのはわからないが、彼は満足した様子で拳を握りしめた。 衝撃に備えるため、うまくいった嬉しさで頬が緩みそうになるのを抑えたが、今回もまた何も感じなかった。

「ごめん、目は開けておいてほしい」

おそるおそる目を開けながら彼の表情を見ると、目の端が潰れたような、歪んだ笑顔でわたしをじっと見つめている。正直影であまりよく見えないが、その暗さがなおさら不気味にさせている。

「ちゃんと見てほしいからね」

軽くそういい終えると、彼はついに血管が暴いたその拳をおもいっきり持ち上げ、振り下ろした。

いたっ!!

額から上が火に焼かれたようにジーンとして、鼻の奥から目の後ろあたりにかけて強烈な鉄の味がする。思考が痺れて、コントロールが効かなくなった口から涎が垂れ出したのがわかる。眼の角から大粒の涙が滲み出る。鼻水か鼻血なのかわからないけど、鼻の中央あたりが熱くはち切れそうで、息ができなくて苦しくなる。

ひゅー、ひゅーと必死に浅い呼吸をつないでいると、彼がまた話かけてきた。

「どうだった?怖かった?」

「怖、怖く、ないです!ごめんなさい、ごめんなさい!」

「そうかい」

彼の声のトーンが一段と低くなった。けど心なしか、さらに嬉しそうに聞こえた。

「ならもう一回いってみようか」

「ごめんあさい!まってー」

わたしの懇願にも関わらず、また額の少し下のあたりを強く殴られた。体をうねらせる暇もなく、ひりひりとした皮膚に彼の指節がくっきりと食い込む。ドン、と低い音が、耳に空気の層が詰まってるような感じで弱くなった頭の中に響く。腫れた薄い皮膚が彼の拳骨にべたつき、乱暴に振りほどかれては千切れるような刺激が走る。恐怖より遅く来た痛みに歯を叩きつけて舌を噛みちぎりそうになる。

ドン。ドン。

頭の芯が円を描くように揺れて、最初の衝撃がまだ引かないうちに次が来る。

音がしなくなりはじめた。痛さでまぶたが開けられない。鼻はもう血の匂いで満たされていて、一生懸命努力口を開けて呼吸しようとするけど、上の方から血が少しずつ入ってきて、気持ち悪るさに吐きだしそうになる。両手が固定されているのでどれだけからだを震わせても逃げられない。手錠がガシャン、ガシャンと激しく揺らされる音がかすかに聞こえたが、自分の手はもう彼の体重を乗せられてるうちに麻痺してきたので、もしかしたらベッド全体が揺れているのかもしれないと考える。でも実は何も考えられなくて、ただすべてがぼかされたようにふわふわする。


保護される前のことを思い出す。父が「おかえり」を言わなかった日。夕飯を食べなかった日。部屋で勉強しようとしても目がくらみ、涙がひとりでにこぼれて、文字が頭に入らなくてなって、また泣いてしまう。そして決まって、乱暴にドアをたたき開けながら無言で入ってくる父。呼吸が早くなり、怖くて、考えるより先に謝罪が口から出る。が、それで父の機嫌がよくなることはけっしてなかった。

「こんなんじゃ社会でやっていけないよ。出てきなさい。」

「出てけ。今すぐそこから出ていけ。」

「出てけつってんだろ!聞こえないフリしてんのか?顔をあげろ!殺すぞ!」

そして、

「自分で拭きなさい」

「ごめんなさい…ごめんなさい、」

バタン。

父はいつもこう言い残し、ドアの向こうに消えていった。わたしは鼻血を拭くためのタオルを、すすり泣き声と悲鳴が出ないように口に噛んで、自分の頭を机に打ち付けた。何度も。何度も。震える腕を机に置き、ハンマーで指の甲を赤色に潰した後、手を、足を、お腹を、ハサミの先端で切り開いた。痛みがぬくもりに変わって、それに優しく揺らされて眠りに落ちるまで。

それでも父のことは大好きだった。こんなに価値のない自分を傷つけることで父が生きていけるのなら、それはむしろとても嬉しいことだとも思えた。

実際、毎日、殴られる前の時間はとても恐ろしかった。ただ、次の瞬間に父が入ってくるんじゃないのかと考えると、殺される恐怖で泣き出しそうだった。そんな事を考えている自分が嫌いでまた泣きそうになって、数学の問題も全く分からなくて、解答シートを泣きながらにらみつけて、早く死ぬしかないということしか考えられなかった。

だけど、わたしはいつしか父が入ってくることを心の奥で密かに期待していた。殴られるまでの時間は耐え難くて悲しかったけど、顔と手がヒリヒリして、自分には生きる価値がないとはっきり言われた後は、なぜかとてもあたたかい感じがした。もうすぐで死ねて、もう誰にも迷惑をかけることもなくなるんだ…と考えると、安堵と泣きたくなるほどの嬉しさがなだれ込んで、安心して自分をもっと傷つける事ができた。それは幸せで、わたしは父に殺されることを夢見るようになった。機嫌の悪い日に、何かの拍子でわたしを殺してくれたらいいのにと。

しかし、なぜかまた神様に裏切られた。

父は酒をやめた。わたしにも笑顔で話すようになった。毎日遅くまでパソコンのキーボードを叩いた日でも、足音は静かだった。でも仕事は相変わらず多くて、夕飯を食べない日も少はなくならなかった。父は目に見えて痩せこていった。目の下のクマが一日、また一日と重くなっていくのが分かる。

父のことが心配だった。だから、とある日の深夜に勇気をだしてリビングの方へと歩いてみた。ドアの向こうに明かりがついてるのをみて一瞬足がすくんだが、深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着かせた。それから、震える手を無理やり動かし、意を決してドアを開けた。

大丈夫。怖くない。父がいなくなってしまうことの方がずっと怖い。

門の金属からキィーとかん高い音が鳴ったが、父はわたしに目もくれなかった。安堵したと自分に言い聞かせたが、同時に少し悲しかった自分もいた。どうにかして注意を引こうと、わたしはなにか言おうと考えた。

「ねえパパ、早く寝ようよ」

「明日起きられなくなっちゃうよ」

一瞬父の視線がこちらを向いたのを確かに感じた。二人の間の数秒を静寂が埋め尽くした。

突然、父は怒りに燃えて椅子から立ち上がり、震えながら手を握りしめているわたしを怒鳴りつけた。

「いい加減にしろ!」

やった。

目に涙が浮かんだが、心の中ではうれしかった。父はやはり我慢していたのだ。わたしは震える両手を大きくあけながら、息を吸い込んでこういった。

「パパ、最近我慢してるよね」

「わたしのこと、怒っていいんだよ」

怒りに震える表情筋の動きが止まった。わたしは達成感と緊張感で立ち尽くしながら目を閉じ、ただとびっきりの笑顔を作って、息を留めながら、父を受け入れるのを待っていた。しかしどれほど待っても、父が動く気配は感じられなかった。

こらえなくなり、細く目を開けると、父はその大きな手のひらのなかに顔をうずめていた。わたしは急いで父のそばへ走り寄った。そして昔のように息をこらえて横でおとなしく待った。でも、父はまたなにもしなかった。いわれのない罪悪感が心の底から湧き上がる。最悪の想像が目の前の現実を侵食していく。

ごめんなさい。

わたしのせいだ。全部わたしが我慢させてたせいだ。

「パパ…ごめん…」

必死にあやまっても効果はなかった。父は死んだか、壊れたのではないかと本気で思った。わたしはいつもなら怒鳴られるかもしれないにもかかわらず、さらに泣きそうな声を上げて願った。

「パパ、ごめん、本当にごめん、だからなにか言って…」

泣きながら願い続けていると、やっと父は顔を挙げてくれた。わたしは急いで頭を低くしたが、父はただ、疲れ切った声でこういった。

「パパは疲れたんだ。おまえもこんな遅くにおきちゃいけないよ。早く寝なさい。」

違う。こうしてほしいわけじゃない。早く、わたしをー

「明日は学校があるだろ?寝なさい。ここにいても邪魔なだけだよ」

わたしが再度声を上げるより前に、父は再び視線をパソコンの画面に戻した。その瞬間、もうわたしは父にとって、もう何の価値がなくなったことを、はっきりと理解した。わたしは泣きながら部屋に駆け戻り、力を込めて頭から顔、お腹を必死に金具で殴った。しかし冷たい金属の痛みには、もうあの温かさは宿らなかった。


意識がベッドの上に戻る。わたしは今きっと涙と乾いた赤にまみれて、痛みに眉間を歪めて、血眼で虚なところを見つめているのだろう。けど、わたしはとても幸せな気分でいる。だって、こんな生きる意味がない人間が、もう一度誰かのために役立てて、誰かに愛されるとは夢にも思わなかったから。そして、わたし自身殴られるのを楽しんでいる。もっと殴って、痛みつけられて、最後はこの人の優しい声に絆されながら永遠の眠りにつく。それはきっと幸せで、いまのわたしが手にすることができる唯一の幸福だと思う。もう一度、死ぬことは幸せだとはっきり再認識した。嬉しさのあまり、涙と笑みがこぼれる。痛みと快楽が同時に襲ってくる。

「もっと…して」

自分の声の掠れ具合に驚いたが、それはもはや重要ではなかった。ただ、今、必死に殴られたい、愛されたいと願った。彼はわたしのささやかな熱望に気づいたようすで、こう答えてくれた。

「そういうには、自分からもうちょっと積極的にならなきゃね」

いじわるだと思いつつも、わたしは涙をふき、とびっきりの笑顔を作った。そして、

「お願い…します、」

「わたしを…殺して、ください」

頭を垂れながら、そう本気で懇願した。自分でも驚くほど誘惑的な声だった。

彼は満足げに頷いてくれた。そして、これから、たった一つの願いを叶えてあげると言わんばかりに、一礼するかのようにその大きな身体を屈めた。

顔が近い。品の良いコロンの香りが、鉄の匂いを掻い潜りながら脳に直接語りかける。この人が、私を愛してくれている、父を悲しませるだけの、生きる価値がないわたしという人間も愛してくれてるという事実だけに幸せを感じる。もしかしたら、彼は死神かもしれない。わたしみたいな人間すら、極上の死と幸せを語りかける博愛の死神。それはあまりにロマンチックな存在で、わたしはもう彼に殺されるのが待ちきれないでいた。心がドキドキするのを感じ、これが恋か、と思い上がる。

彼は紳士的に、わたしのゆったりとした綿のパジャマのボタンを一つずつ上から外し始めた。自分の体がだんだん露わになるたび、空気に触れるたびにわたしは興奮に震えた。改めて見ると、わたしの身体は本当に醜くてしかたなかったが、彼はめっきり気にしないようすだった。むしろ、喜んでいるように見えた。それがなおさらうれしかった。

ドン!

期待通りの恐ろしい衝撃が胸腔のなかでこだまする。鳩尾に激痛が走って、薄い胸板が狂ったように上下しはじめる。うれしい。これほど愛されていると感じたことは今までなかった。涙でぼかされた視界に彼の顔が映る。

その顔は笑っていた。その笑みをわたしは知っていた。心から嬉しい時の笑い。もう二度と父が見せることのなくなった表情。それが今、目の前にこんなにも輝いている。

わたしは笑い始めた。といっても、息を吸い込むにも痛くて、ただ痛みが痛みを呼んでひきつってるだけなのだが、それでも心からの笑いには間違いなかった。またすごい歪みが心臓のあたりに走る。カン、となにか明らかにおかしい音がしたが、麻痺したノイズが胸あたりを覆い尽くしてそれどころではない。

体の中で何かが硬いもの割れた感じがする。息を吸おうとするたびに、肋骨の内側で何かが鋭く食い込んできて、吸いきれないうちに呼吸が止まる。それでも空気が足りなくて、足りないまままた吸おうとして、また痛みに遮られる。もう皮膚が痛いのか、内臓が痛いのか区別がつかなくなってきたが、だんだんと温かさが脳をやさしく囲んできて、考えることをやめてもいいと囁いている。

体をうねらす気力もなくなってきた。わたしは呼吸しやすい姿勢に身体を傾けなければならなかった。

息を吸う音がやけに大きく聞こえる。痛みには麻痺しているのに、全身の感覚が突然敏感になったように周囲の環境の変化が鋭く伝わる。男の呼吸が荒くなっているのがはっきりと聞こえた。しかしそれ以外にも、妙な音が室内にこだましていた。低いうめき声の様な音。

「がっ」

「え゛うっ」

耳に入ってきたのはやけに低く、変なエコーがかかってるように朦朧としている、立て続けに起きる反吐の様な声。それを自分の声だと気付くのに長くかかった。

ヒュー、ヒッ、はっ、

異常に早い呼吸の音が続く。わたしはついに死ぬんだ。なぜかわからないけど、確実に、はっきりと、そう思った。

トン。トン。トン。

鈍く響く心臓の音が急に早くなり、呼吸の底がつっかえたように浅く繰り返す。ああ、横隔膜が壊れたんだ、とわたしは冷静にそう考えた。吐き気と悪寒が全身に広がっているけど、すでに痛みに埋め尽くされたところには不思議と感じられない。ただ懐かしい温かみだけがそこにあった。出血によるものなのだろうか?どうも違う気がするけれど、うまく説明できない。しかし、もう説明を考える必要もないのかもしれない。わたしの声はもう誰にも聞こえないのだから。

男の呼吸がゆっくりと遠ざかっていった。それから音が消えた。手錠の軋む音が、布団の擦れる音が、室内に満ちていたはずのすべての音が、水の底に沈むようにまどろんでいく。次には重さも消えた。膝の圧力も、手首を固める金属も。肋骨の奥に残響していた衝撃。ひとつひとつが、丁寧に剥がされるように消えていく。暗がりの中で彼の輪郭がとけて、誰かがそこにいるという気配だけが残った。

痛みだけは消えなかった。


輝く様に晴れた夏の日、家族三人で公園にピクニックに出かけたときの思い出。わたしと母はボール遊びに夢中になっていた。何度も転んでは立ち上がり、笑い声をあげてボールを追いかける。

お父さんは少し離れたところで、そんなわたしたちを微笑みながら見つめていた。その表情はこの世の物とは思えないほど穏やかで、優しさに満ちていて、時折楽しそうに口元を緩めては笑みをこぼしていた。

あの表情だ。わたしが二度と見ることはないと思っていた、わたしのための特別な笑顔。

あまりのまぶしさにただ見つめていると、父はふと立ち上がった。そして、わたしの方へと歩いてきた。楽しそうに母と遊んでいるわたしではなく、醜く、汚く、価値のない、いまのわたしの方へ。一歩、また一歩と。わたしは動けなかったけど、動く必要もなかった。こんなわたしのところへ、父が来てくれている。それで十分だった。

そして、その大きな手のひらで涙と血にあふれたわたしの頬をやさしく撫でながら、こう言った。

「もう大丈夫だよ」


父の声が遠くなる。顔も、手も、すべて遠くなった。でも温かみだけは残った。これが欲しかった。ずっと、これだけが欲しかった。

もう怖がることはなくなった。もう苦しむことはなくなった。

全身に温かみが広がった。

わたしは笑った。満面の微笑みで、もう動かない口を動かして、心の底から言葉を発した。

だいすきだよ。 ‍