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Sommeとお散歩: 第一回 1889年、パリ

Paris, France · 17min

1889年6月のパリは曇りだった。 Sacré-Cœurの工事中の足場が、モンマルトルの丘の頂上に白く浮かんでいる。苔がむす石段の上から、パリが灰色に広がっているのが見える。遠く南の方、シャン・ド・マルスのあたりに、何かが立っていた。完成したばかりの鉄の塔。まだ街に馴染んでいない。

石段の下、家屋の裏から、人影がこちらへ向かってくるのが見えた。

「本当にきてくれたんだ、うれしいな」

あなたは頷く。わたしは満足げにあなたの手を引く。

「パリはどう?ここの風景は悪くないでしょう」

ちょっと答えづらい雰囲気になったので、慌てて態勢をとりなおすよう自信をだしてこういった。

「せっかくきたからには、私が案内してあげるよ」

 モンマルトル頂上、Rue Cortot から続く小路。石畳の鋪設が終わって数ヶ月たったばかり。
モンマルトル頂上、Rue Cortot から続く小路。石畳の鋪設が終わって数ヶ月たったばかり。

丘を降り始めると、足元の石畳が濡れていた。昨夜雨が降ったらしい。モンマルトルの坂道は急で、両脇に六階建ての石造りのアパルトマンがちょっと歪んだ姿勢で立っている。ここはずいぶんすべりやすいから、注意しなきゃ。その途端、わたしは出っ張った丸石にスカートの裾を踏んで転びかけた。途端に過ぎ行く人だかりが冷やかな眼差しを投げる。一人の中年の女性がわざとらしく手を伸ばしたが、わたしはとっくに立ち上がっている。彼女はそれでも手を引っ込めず、助けてやったのだという顔をして、連れの婦人に何か囁きながら去っていった。

一階の丸いガラス窓から、パン屋の温かい匂いが漏れてくる。物売りの声、遠くで鳴るロバの蹄の音。焼きたてのブーㇾ・パンの山がガラスの棚から覗いている。あなたと自分のために一つずつ買って、バッグにしまう。

坂の途中で振り返ると、工事中の Basilique du Sacré-Cœur が山頂に浮かび上がった。未完成でも十分大きくて、威圧感があった。足場は丘の頂を覆い尽くすように組まれていて、白い石灰華のブロックが何十段と積み上がっている。完成すれば五つのドームを戴く大聖堂になるらしいけど、今はただの巨大な傷口にしか見えない。

あの教会、できるまであと三十年かかるんだよ。


モンマルトル通りに入ると、通りが広くなって、道の状況もけっこうよくなってきた。辻馬車が石畳を揺れながら走り、御者が歩行者を怒鳴りつけている。これまたいつものことだ。彼らの馬夫はよくカーブで苦労するが、上流社会の人たちはどれほど緩やかでも坂道を歩くことなど考えられないらしい。傲慢なこと。どうせキャバレーにいって半裸の女たちのダンスでも鑑賞するのでしょう。Le Chat Noir がヴィクトール・マセ通りに移ってから、あの辺りには似たような店が次々に増えたけど、どれも Salis の毒舌には遠く及ばない。ダンスも、読み上げる詩も、影絵も、なにもかも面白くなくなった。そんなことをあなたに話す。

モンマルトル通りにあるヴァリエテ劇場。今日の演目はなんだろう?
モンマルトル通りにあるヴァリエテ劇場。今日の演目はなんだろう?

車がぶつかるすれすれの道端では新聞売りの少年がいた。道行く人をみるや否や、L’Exposition universelle! L’Exposition! と目を見開いて興奮状態で叫んでいる。万博の開幕からもう一ヶ月が経つのに、まだそれで売れるらしかった。とても面白かったので、少年の手から一枚もらって丸めてあなたに投げた。余った手で少年に硬貨を渡す。

しばらく歩くと、家並み、木、家並み、広場、家並みと続く向こうに空が広がってきた。屋根が少なくなる。橋だ。

ポン・ディエナに出る。セーヌ川が雲に透ける陽に鈍く光っていた。きらめく川面を鴎が数百羽、低く横切っていく。霧を切り縫いするそれらは、まるでセーヌが溜め込んだ百年分の手紙を一つのボロ雑巾にまとめてるみたい。あなたと欄干にもたれかかって、数分間ただゆっくり流れる河水を眺めた。

橋の上はひどく混んでいて、馬車と歩行者と両側に屋台の荷車が押し合っていた。霧が深くなるほど人と熱気が溢れ出る。外出服をきた初老の男性、日傘をいっぱいにさした女性の数人が、まだ屋台に占拠されてない欄干に寄っかかって川の流れを眺めている。わたしたちは欄干側を諦めて、橋の真ん中の人の流れに戻った。

誰かに肩をぶつけられた。振り向いたが、その人はもう人込みの中に消えていた。

「パリって、いつもこんな感じ」


川の向こうに、エッフェル塔がある。近づくにつれて、その大きさがじわじわと変わってくる。

橋の欄干にもたれた老人が、塔の方を見ながら独り言のように言った。襟が擦り切れた上着を着ていて、帽子もかぶっていない。醜い。工場の煙突みたいだ。

「まあ、あと百年もすれば慣れるよ」

シャン・ド・マルスの入口が見えてきた。会場の鉄骨の骨組みが、曇り空の下に白く広がっている。人の波が、そこへ向かって流れていた。

シャン・ド・マルスの周辺は、前の万博の1878年以後から盛んに植樹が行われていた。
シャン・ド・マルスの周辺は、前の万博の1878年以後から盛んに植樹が行われていた。

入場料は四十サンチーム。わたしは財布から硬貨を二枚取り出し、あなたの分も払った。回転式の改札をくぐる。

目の前にエッフェル塔がそびえている。橋の上から見ていたより遥かに大きく、四本の巨大な脚が地面にめり込むようにして立っている。脚と脚を繋ぐアーチの曲線はおそろしく急で、見上げていると首が痛くなる。三百十二メートル。今この瞬間、地上で最も高い建造物。それなのに、パリの建築家たちの半分以上はこれを憎んでいる。Maupassant がここのレストランで昼食をとるのは、塔の中にいれば塔を見なくて済む唯一の場所だからなんて言ってたらしい。わたしは結構好きだけどな。

土台のアーチをくぐった先に、シャン・ド・マルスの広場が奥へ奥へと続いていた。左手に自由芸術宮、右手に美術宮、その先に機械宮の巨大な屋根。ガラスと鉄骨でできた半円のアーチが、空を塞ぐようにして横たわっていた。

人だかりが機械宮の入口に向かって流れている。あなたの袖を引いて、その流れに乗った。

中に入ると、熱気と音に包まれた。蒸気エンジンの低い唸りが足裏から伝わってくる。歯車が噛み合う金属音、ベルト駆動の風切り音、見学者のざわめき。天井は四十五メートル近くあって、光が鉄骨のあいだから斜めに差し込んでいた。柱が一本もない。壁から壁まで百メートル以上の空間を、鉄骨のアーチだけで支えている。その下に、Schneider-Creusot 製の蒸気ハンマー、巨大な紡績機、輪転印刷機がひしめいている。床が振動していて、建物そのものが一個の機械みたいだった。遠くにエジソンの展示コーナーが見えた。人だかりができていて、順番待ちの列が蛇行していた。

幅115m,高さ45mの機械宮は、当時世界最大の全通構造の建築物だった。
幅115m,高さ45mの機械宮は、当時世界最大の全通構造の建築物だった。

「あそこで蓄音機の実演をしてるよ」

振り返ると、すぐ近くを背広を着た二人の男が歩きながら話していた。

「それよりも鉱業と冶金の展示を見なくては。あちらの方が重要だ!」

「疲れましたよ、閣下。もう十分見たじゃないですか。 」 若い方の男性が苦笑いしながら頭をかく。

「何を言っているんだ、展覧はまだ始まったばかりだぞ。」

わたしはその会話を聞き流しながら、あなたを蓄音機の列には並ばせずに早足で先へ進んだ。こうはいったが、正直興味が沸かないのでわざわざ並びたくない。

機械宮を抜けると、また広場に出た。今度はアンヴァリッド広場の方へ向かう。会場の西の端、セーヌ川沿いに植民地エリアがあった。建物の様式が変わってくる。石とタイルの装飾、馬蹄形のアーチ、ミナレット、朱塗りの欄干。さっきまでの鉄とガラスの世界が嘘みたいに、漆喰と土壁の建物が川沿いに並んでいた。どの館の前にも現地から連れてこられた人たちがいて、民族衣装を着て、織物をしたり、壺を焼いたり、決められた生活をして見せていた。

観光客がその前で立ち止まり、オペラグラスを向けている。 わたしたちは立ち止まらずに、その前を通り過ぎた。

カイロの道 (Rue de Caire) は万博の目玉展覧の一つで、50人のエジプト人ロバ引きとロバを実際にカイロから連れ込んで配置した街道レプリカであった。
カイロの道 (Rue de Caire) は万博の目玉展覧の一つで、50人のエジプト人ロバ引きとロバを実際にカイロから連れ込んで配置した街道レプリカであった。

少し奥に入ったところに、柵に囲まれたエリアがあった。

藁と泥でできた小屋が並んでいる。その前に人が立っていた。座っている人もいた。周囲の観光客が、柵の外から眺めている。子供連れの夫婦、紳士、婦人。パンフレットを手に持った男が、連れの女に何か説明していた。

小屋の群れのほぼ中央に、低い壁があった。四角く囲われた壁。高さは胸のあたりまでしかない。

傍らの立て看板に、こう書いてあった。

Mosquée.

モスク、と書いてある。

わたしはしばらくその壁を見ていた。幅二メートル半、長さ五メートル。角が丸く、低いテラコッタの壁。

「終わってるね」

それ以上話すのはやめた。それに、柵の外では観光客が楽しそうに写真を撮っている。セネガル人だろうか、白のバンダナをかぶった黒人が私と目があった。綺麗な黒の瞳。何かの光を反射して、きら、きらと輝いている。


出口で販売されていたポスター。塗料に金が使われている。
出口で販売されていたポスター。塗料に金が使われている。

出口の近くに、辛うじて空きが残っている長いベンチがあった。

「疲れちゃった?少し休もう」

鞄の中からパンを一つ取り出して、あなたに渡す。まだほのかに暖かい。

会場の喧騒が、少し遠くなった気がした。機械の音、馬の蹄、どこかで演奏している金管楽器。曇り空がさらに暗くなっている。あなたと私はパンを頬張りながら、膨らんだ頬で今日の思い出について話す。

しばらくして、雨が降ってきた。やっぱりだ。

ベンチの上の庇がわずかに雨粒を防いでいたが、足元の石畳がみるみる濡れていく。観光客たちが傘を開いたり、建物の軒下に駆け込んだりしている。たて続けに婦人たちの甲高い笑い声と、男性の怒鳴り声が聞こえる。

私はベンチから立ち上がり、スカートの裾を少し持ち上げた。

「散々だったね」

あなたの方を見て、少し笑った。

「でも、楽しかった」

雨の中に踏み出す前に振り返った。
透き通った水だまりが、曇りの空を映してすこし暗い。

「また来てくれる?」

返事は聞かずに、雨の中を歩き始めた。